ごみを捨てる背中に考えさせられたハナシ
夏に実家に帰った時。
私の祖母(御年82歳)が朝早くごみ捨ての準備をしていた。
ごみ収集所は結構遠くにあって、彼女が歩くと30分位かかりそうだ。
子供たちと帰省したから、ごみは増えて大変だろうなぁなんて思った。
し、私は最近とーんとごみに対する意識が低下しているなとおもった。
高校生の頃、よくコンビニで紙パック500mlのリプトンを飲んだ。
飲み終わったら、ちいさく畳んで捨てていた。
それが上京したらどうだ。
…いやそれでも最初の方は、稲城はごみ袋有料だったからちゃんとやってたか
お金なかったしな。
それでもだんだんと鈍っていって、
ひどいのはマンションに越してからだ。
24H捨てられるごみステーションは完全に感覚をマヒさせた。
といったら大げさだけど、ごみを小さくして捨てようなんて気はさらさらなかった。
分別の雑さといったら、目もあてられない。
管理人さんと掃除のおばちゃんとめちゃめちゃ仲がよかったから、しょーがないなーとか言われて何でもやってもらってたことも拍車をかけた。
どっかで読んで、ほうと思ったんだけど、
「私は幸せな子を育てるのではなく、自分の力で幸せになれる子を育てたいです」ってやつで
便利な環境や合理的な思考は、自力で生きる妨げになることも往々にしてあるなと思ったりする。
愛する娘たちのために、最高の環境を。もちろん。
でも、それは温室の提供でなくて、面倒を経験して、考えたり、工夫したり最終的には自力で生きる力を身に着けてもらうのがいいんじゃない?とかおもった。
間違いなく将来娘たちは私のごみ捨て姿に、郷愁はそそられないだろうな…
みたいなことを考える位の威力が、早朝の祖母の背中にはあった。
思えば引っ越しを後押ししたのは、祖母の背中だったかもしれないな
ただひとつ問題が…
不便に耐える、親の忍耐力。
これがいちばんしんぱい。